シネマライフキャリア - Cinema Life Career -

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映画『泣く子はいねぇが』感想:一人の男が見切りをつけられる現実味

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仲野太賀さん主演に、吉岡里帆さんが出演ということで、心待ちにしていた作品。

わかってはいるはずなのにそれに伴わない行動で、やらかして失っては、向き合いきれずに逃げて…そこでやっと気づく自らには何もないという空虚さ。
自らを客観視して向き合うのは難しくもあり、なかなか自分だけでは解決できないこともある。

それからなくしたものに向き合っていく決意と行動が一人の男を徐々に変え、芽生えていく父親として生きる上での責任と自覚。
ただし、それに気づいたときにはもう遅く、なくしてしまった信頼を取り戻すことはできない。
そんな無責任かつ無自覚にやらかしてしまった側が、見切りをつけられる現実がまざまざと描かれる。

これは他人事のように見えて、他人事として割り切れない男女の関係によるシビアさがある。

共同生活を営む中で、無自覚に、無責任にしてしまう一つ一つの発言や行動、そして仕草までもが相手に良くも悪くも影響を与えることがあって、表面として出ていなくても氷山の一角はどんどん積もっているかもしれない。

本作では、完全に見切りをつけられる決定的な一打があったから、あのように早い段階で関係が切れることになるが、それがなかなかできずにどちらかが我慢をし続ける状態で、もっと溜まりながら心の距離が離れていき続けてる関係は他にも全然ありそうだ。

一人で生きていく中では考えなくてもよいが、誰かと生きる上ではこの作品の描いていることに向き合わずにはいられないだろう。
意識していなくてもうまく回ってると思っている人がいたら、それはどちらかが我慢をしている可能性がある。
それだけなかなか表には出て来ないことだとも思うから。

表に出てからではもう取り返しがつかない状態なのだが、そうなるまで気づけない、いや薄々気づいていても、自分を顧みることを先延ばしにして、向き合えない弱さがあるのもまた人間だと思う。

そんな人間の姿の象徴として描かれていたのがたすくではあったが、そうなってしまったときに、次の一歩をどう踏み出していくのかも大事で、そこへの向き合い方とそうなったときに救いになるものとは何かも本作では示唆されていく。

自らの意思がないからこそ、責任も伴わずに流れるように生きていたたすくは、気づいたら居場所をなくしていて、どう生きていけばよいのかもわからなくなっていた。
別にそれがなくても生きていける人もいるだろうが、たすくにはそれだと生きた心地がしなかったのかもしれない。
だからこそまた居場所を取り戻す決意をしたのだろう。

最後のシーンは、たすくなりに向き合った結果、自分にはこれしかないと結論づけるに至った、一種のケジメとして行動なのだろう。
そこにナマハゲへの監督の思いも強く感じられる。
そんな今までにないと感じていたたすくの自覚と責任を、やっと感じ取ることができたからこそのことねのあの行動でもあった気がする。

比較するのはあれだが、映画『凪待ち』と重なる部分がある。
それは主体性の有無だけでなく自覚や責任が全くない主人公を辿る物語であることもそうだし、娘の名前が凪というのも全くの無縁ではない予感がしてるから。

決して悪気があるわけではないのに、発する言葉や起こす行動、そして見せる表情が全て悪い方向に拍車をかけてしまう様が、いかにもいそうな感じがして、見ていてきつかった。
あらゆる言動が、誤魔化そうとしているように見えてしまう。

主人公がより人として堕ちるところまで堕ちていくのが『凪待ち』ではあるが、そこの描写に関しては本作はわりと控えめで、それはたすくの性格に人としての理性がまだあったのと彼のことを支える救いとして親友・志波亮介と母親の存在があったからだと思う。

何もないと悟ったときに、見捨てないでいてくれる人がいるだけでもう少し生きていられる。

人間関係におけるリアリティを突き詰めていきながら、じんわり救いも持たせてくれるバランスが絶妙な映画だった。

P.S.
仲野太賀さんの一つ一つの表情と吉岡里帆さんが仲野太賀さんを見る冷めた目が物凄くリアルで突き刺さってくる。
実はドラマ『ゆとりですがなにか』でも共演してる2人だが、こうやって主演の夫婦役(離婚するが)として交わるのは感慨深いものがあるし、もちろんさらに演技力に磨きかかっていて、まさに2人だからこそよりのめり込めるものとなってる。
脇を固める寛一郎さんと山中崇さんの存在感もよき!