【映画】ジョーカー(Joker) 〜本当の悪は笑顔の中にある〜
ジョーカー(Joker)
本当の悪は笑顔の中にある。
物凄いダークコメディ。
いやもはやコメディの枠には収まらないくらいに重たく骨太に、ピエロのアーサーがジョーカーになるに至るまでが描かれている。
笑顔がこんなにも怖く、笑顔がこんなにも多いのに全然笑えない作品を鑑賞したのは初めてだ。
そこに至るまでにそうなるであろう背景とシーン、物語の作り込みが本当にしっかりとしているので、アーサーがジョーカーになってしまうのを理解できてしまう自分がいた。
それもまた恐ろしい。
どんなときも笑顔で人を楽しませなさいと教えられ、コメディアンを夢見ていた心優しいアーサー。
生活は厳しいながらも些細な楽しみを見出しながら、母親を介護しながら笑顔で日々を過ごしていた。
そんな人柄もよく見える彼がなぜ変貌を遂げてしまったのか。
社会の中における様々な理不尽や信頼していた人からの次々のジョーク(嘘)や裏切り、自分の言葉には耳を貸そうともしない周りの人たち…まさに階級社会の中の弱き者に浴びせられる不条理全てを一身に受け止めざるを得ない環境から、どんどんと孤独に追い詰められていった末路があれだった。
しかもそれはなかなかに容赦のないことだらけ。
一つの不条理であればまだ我慢し、折り合いをつけながら生きていけるだろう。
でも彼には何重にもそれらがのしかかってきていて、生活の中での正常な判断力、適切な人との関わり方すらも失っていっていた。
そのような悪循環が回り続けてどんどん救いがなくなっていく展開に陥っていく。
それでも唯一の救いが彼の中にはあって、それが母親と妄想からくる理想の中の自分の世界であった。
それらすらも嘘偽りであったことが事実と現実を認識することから知ってしまった彼の衝動を抑えられるものはもうなかった。
アーサーにとってはもう何もかもがおかしい世界で誰もを信じることすらできない。
さらに幼き頃から洗脳であるかのような酷い仕打ちを受けていたなんてことを知ると、心の置き所なんて自分だけでは用意できるわけがない。
そうなった彼を止めることはもう誰にもできなかった。
理不尽が巡り巡って次々に理不尽を生んでいく構図。
それが繰り返されていく世界ほど生きづらく混沌としている世界はない。
このように無秩序に支配している(強い権力を持っている)側が、世の正しさを決めてそれ以外を悪にしてしまう世の中では、そもそもそれ以外の人たちの善悪が、正しく反映され得るわけもなく、おかしいの一点張りで話が終わってしまう。
善も悪も、結局その立場状況周りの環境から、何通りも存在する。
それがこんな混沌とした世界で、主張の強い人たちだらけなら尚更である。
だからジョーカーがラストであんなに賞賛を浴びていたのだろう。
悪徳宗教も似たようなもの。
でもそれが全体に行き渡って暴徒にならないのが、まだ日本が平和である証というか、救いのようにも思える。
もちろん出てきていないだけということも十分に考えられるが。
海外でこのような作品が作られるということは、本当に本作に近しいような世界がどこかにはあるからなのか。
もしくはこの世界そのものはあくまでフィクションなので、妄想として真に受け止めなくてもよいのか。
色々と問いを投げつけられているような感覚に陥る。
でも笑顔で人を楽しませることを生業としている表(理想)の自分と全くそんな世界とは無縁の裏(現実)の自分。
こういう理想と現実のギャップに苛まれながら生きていかざるを得ない人は、少なからずいるはずであるから、現実として受け止めないといけないのではと思ってしまう。
キャッチコピーの笑顔の中というのは、裏でそれこそ本当の自分のこと。
心優しきいつも笑顔のアーサーが悪のカリスマ(とあくまで呼ばれている)ジョーカーになってしまうことも、その狂気がヒーローになってしまうこともわからなくはなかった。
人の悪意の積み重ねが狂気と化したジョーカーを生んだ。
こんな世界が最も怖くてどうしようもない。
だからとてつもなく難しいことを大前提に、こうなる前に正していかないといけない。
こんな世界の中では「狂気と英雄」「暴虐と革命」は紙一重になる。感覚がおかしくなる。それもまた恐ろしい。
なかなか心が抉られる現実性と虚構性の入り交じる唯一無二の世界観でした。
悲劇が喜劇と化すとき、とんでもないことが起こる。
P.S.
ホアキンフェニックスのジョーカーが想像以上に凄い!
あの笑顔と笑い声はトラウマ級にやばかった。
題材全然違うから比較するのよくないけど、直近だと救いのない宮本(宮本から君へ)みたいな感じ。
宮本はまだ味方がいて救いがあるだけ全然マシだと思えるレベル。
邦画民もそれだけでやばさを感じてもらえるはず。