シネマライフキャリア - Cinema Life Career -

映画やドラマをメインにコンテンツの感想記事と生き方やキャリアを考える上で参考になりそうな記事を書いていきます。

映画『ジオラマボーイ・パノラマガール』感想:衝動を軸に浮遊してるような感覚

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成長するだけじゃ、オトナになれない。

青春ならではの何かに懸命になり、向き合っていき、変化を伴う成長を軸にした理性的な作品というよりは、人生の中にある衝動や気持ちの揺れ動きに着眼しているような感性に訴えてくる作品。

ボーイミーツガール、ガールミーツボーイ、ガールミーツガールがそれぞれの起点となり、青春×恋愛映画の雰囲気を醸し出しながらも、それらに規定されている枠からは飛び出ていて、何かが起こる物語性を意識してるというより、その人たち自身にフォーカスされている印象を受ける。

それゆえになかなか掴みどころがなく、作品自体がこの世界から浮遊してるような不思議な感覚に陥る。
そのため、作品にメッセージや変化を求める人にとっては退屈に感じると思い、好き嫌いはわかれそう。

青春を題材として描く作品には、少年少女たちの成長を、気持ちや考え方やできることなど、何かが変わることが前提になって物語が作られているように思うが、本作にはそのイメージとしてある成長は描かれない。

そこに描かれるのは、学んで何かを得るというよりは、こうなったときに抱く気持ちやどうしようもないと感じたときに生まれる衝動のようなものである。

この世界の中で生きていくにあたって起こることや自分が起こす行動全てが、想定内に収まるとは限らない。

大体の高校生にとっては、自分の世界は学校を中心にして動いていると思うが、早々にケンイチ(鈴木仁)が学校を辞めることで、この作品は「学校を中心に生きていく」という高校生にとっての前提を取っ払っていくから、その時点でもう異世界感が漂う。

何気ない一つの出来事は、交差することで初めて偶然や運命へと認識が変わっていく。
そして、その認識は一方通行であることも多く、自分が運命だと感じていたことが、相手にとっては何気ない一つの出来事として受け取られてしまうこともある。

恋愛感情というもの(好きという感情)は、相手のことを知らないほど、主観で動き回るから厄介だ。
相手も自分が思っているように思ってるかもしれないと勘違いしてしまうことがある。
逆にそれがわかっていたとしても、簡単に想いは断ち切れずに、深みに引きずり込まれていく。

好きな人さえいればそれ以外のことはどうでもよくなる。
これは暴論に聞こえるが、あながち間違えてはなく、本質を突いているように思う。
それだけその感情は、自分の世界を支配するし、自分を予期せぬ方向に連れて行く。

踏み出さなかった場所に踏み入れて、それから誤ちに手を出してしまうことも、痛みを伴うこともあって、それはそうしようと理性で動いてるよりは、好きであるという感情が動きを制御できずに、一種の衝動としてその行動に至ってるようであって、そんな姿が各々の一方通行の恋から感じ取られる。
みんなが今後どのような人生を送っていくのかがとても気になった。

この作品のキャッチコピーが意図するオトナになるとはどういうことを指しているのだろうか。
「成長するだけじゃ」は、ただ大きくなるだけじゃと受け取れる。
オトナとは何か感情に支配されることで生まれる衝動を制御する理性みたいなものなのかなと思ったり。
衝動は想像以上に強度があって、実際に経験してみないとわからない。

そんな色んな経験を積んでいくことで、自分を知り制御できるようになる。
それがオトナになるということなのかなと。

高校生が学校内で起こることでなく、学校外で起こることがメインになってるのは、飛び出すことで見える世界、踏み出すことで知れることがあり、それがオトナになる上で大事なんだと示唆したかったのかなと、あくまで勝手に思った。

冒頭にも書いたように、掴みどころがなく理解には苦しんだけど、何か惹かれるものがある不思議な感覚の作品だった。
まあ岡崎京子さん原作の作品なので、その時点で理解するかどうかで観る尺度の作品ではないような気もしてます。

P.S.
山田杏奈さんは個人的にも注目していて、本作は今までの印象とは違う役柄だったけど、新境地としてより広い役を担われるであろう将来がさらに楽しみになった。
あとは森田望智さんがよかったです!

映画『佐々木、イン、マイマイン』感想:青春の全てを体現する佐々木

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佐々木、青春に似た男。


試写にて鑑賞させていただきました。

青春の代名詞みたいな映画。
あの頃に想いを馳せながら、今を生きる人たちの背中を押してくれる傑作。
ちょうど世代的にもどストライクにハマった。

佐々木という青春の表裏を体現しているような男。
表では何も考えていないかのようにはっちゃけ周りを明るくしていっては、裏では父が帰ってこない現在の境遇に思い悩む姿を見せる。
単純に見える外面とそのうちに複雑さを秘める内面と。

何もかもが不安定で揺れていくあの時期が、不器用だが全力で生き抜いていく佐々木によって体現されている。

楽しみ方を見誤る青春時代はなんか見ていて痛々しくもあるが、あの頃にしか許されない特権みたいなものを見ているようで、ある意味で羨ましく帰れないあの日々に浸りたくなる。

出てくる人たちと同じ青春を知る由はないはずなのに、妙に共鳴しているような感じがして、繋がりを見出したくなる。
いつのまにか自分事として、この物語を追っていた。

とにかく外に出て誰かと関わりを持っていないと生きた心地がしなかったあの多感な時期。
悠二らの中心にいたのが佐々木であり、彼なしでは悠二らの関係は成り立たないくらいの存在であった。

学校という場所は、良くも悪くも世界が狭く、それが人と人を強固に結び続ける側面もあれば、視野が狭くなり今がよければそれでよいという思考にも陥りやすい。
そんな青春の両面が、過去と現在の対比によって感じ取れて、だからこそあの頃特有の余韻とあの頃に残してきた後悔とが同時に押し寄せてきて、何とも言えない気持ちになる。

悠二にとって過去の青春の代名詞である佐々木が、現代の演劇におけるシルバとして再現される。
大切な誰かの存在は、心の中に潜み続けてはいるものの、きっかけがないとなかなか思い起こされない。
あえて目を背けたいときもある。
特に悠二のように選択を先延ばしにしたり、人生に焦りやもやもやを感じて満足し切れてなかったら尚更。

役をきっかけに、久しぶりに佐々木と会った悠二。
佐々木は、高卒フリーターで自称パチプロとなっていた。

今を何も考えずに精一杯生きられる学生の頃と未来を考えざるを得なくなる年齢を重ねて社会人になった今。
何かと周りと比較したりさせられたりするし、生活や人生も人によってより大きく変わっていく。
それでも佐々木は変わらない。だから周りと比較すると、堕ちていってるように見えてしまう。
それが寂しくもあるのだが、佐々木があの佐々木であるままに生きていけてるのは何か少し救いのようにも感じる。

地元でずっと生き続けてる人とそれ以外も転々としながら生きている人。
どちらがよいかどうかということではないが、そこには生きていく中での何か明確な違いがあるような感じがする。
それでも強固な繋がりと繋がり続けたい意思があれば、一度会うとまたあの頃みたいに会話ができる。

バッセンとか教室の感じとか情景とか、まさに田舎で送る学生時代っぽい雰囲気がちゃんと出ていてよかった。
なんかよい意味で既視感があって、とても懐かしくなった。
愛おしくも決して戻らないあの時間が帰ってきた感じ。

佐々木の破天荒な生き様を佐々木だけの視点として描くのでなく、影響を与えられ思いを馳せる悠二の視点からを中心に描いてるので、共感性も高く感情移入もしやすい。

おそらく佐々木みたいな人は実際そんなに多くはいないと思う。
ただし、側にいたら人生が楽しくなるだろう。生きるのが少し楽になるだろう。
影響を与えられて、事あるごとに頭によぎってくるだろう。
そういう意味で佐々木には、横道世之介を彷彿とさせられた。まさに青春に似た男。

そして、本作におけるあらゆる断片が集約されながら青春の原点に回帰していくラストシークエンスはエモすぎて、思わず感極まった。
音楽も相まって何とも言えない感慨深い気持ちに。
鑑賞を終えても、しばらく佐々木コールが頭の中で鳴り止まなかった。

P.S.
物語の構成やそれぞれの人物像の描写、情景や全体的な演出は申し分なかったけど、もしかしたら佐々木コールの一連の演出は人によっては合わないかもしれない。
裸になる意味ってそんなにあるんかなと思ったのは正直なところとしてはあった。
キャストは特に主演2人静かに時々における葛藤を魅せる藤原季節さんと思い悩みながらも動を完全再現する細川岳さん、そして萩原みのりさんがよかった。
萩原みのりさんは特にラストの藤原季節さんとの対峙のシーンが見ものだった。
山拓也監督、まだ20代で商業映画デビューでこのクオリティは凄すぎる。
この年齢だからこそ作れた奇跡的なものでもあるかもしれないけど!

映画『アンダードッグ』感想:映画でしか味わえない最高のカタルシス

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無様に輝け。

映画でしか味わうことのできない最高のカタルシス
ここへ来てまた2020年ベストを揺るがすくらいの大傑作に出会えた。

ここまでやってくれるからこそ自然と湧き上がってくる類い稀な思わず震えて奮い立つ感覚。
映画全体の熱を底上げする2020年で最も心打たれたキャスト陣の熱演。
特に森山未來さんはここへ来てキャリアハイを叩き出すくらいの最高の演技。
ファイティングシーンはそこまでやるのかってところまで魅せてくれて、涙なしでは決して観ることができない最高峰に感極まる映画だった。

かつては日本ライト級1位として、チャンピオンまでも手にしかけたボクサーの末永晃。
幼い頃から父親とともに世界チャンピオンになる夢を追いかけていた。

ただし、その道からは外れてしまい、アンダードッグ(かませ犬)としてリングにしがみつく日々を送る崖っぷちのボクサーとなってしまう。

そんな晃に対峙するのは児童擁護施設で育ち、過去に秘密を抱える将来を期待されるボクサー大村龍太と大物俳優の二世タレントであり芸人としても泣かず飛ばずで番組の企画でボクサーをすることになった宮木瞬。

3人にスポットが当たりながら物語が展開されつつ、彼らを取り巻く人たちの生き様にも触れられていき、そこから関係の発展や衰退、そして伏線回収としてそれぞれの関係性を明らかにしながら、ラストファイトへのお膳立てが整っていく。

前編では主に晃の人物像や生きてきた背景が映し出されながら、芸人ボクサーである宮木にスポットが当たりながら物語が展開される。

二世タレントかつ芸人としてテレビに出られているものの、表での自分の姿に納得いかず、裏では父親や周りからも愛想を尽かされていて、今後の生き方に悩んでは、彼の良き理解者である愛にまで当たってしまうことも。

そんな中で企画とはいえ、出会ったボクシングがヘタレ芸人と言われていた彼を徐々に変えていく。
本気で打ち込んだ先に何があるかはわからないが、とにかく本気でボクシングに向き合い、今までとは別人のような顔つきに変貌を遂げる。

宮木の練習相手になっていたのが、ロバート山本博だというのもまた彼と宮木が重なる部分もあり、さらに感情移入できてグッとくる。

何がしたいのか、夢もわからないけど、何かに本気になることはできると、本気で打ち込んだ先に晃とのエキシビジョンマッチで善戦。
倒れてもなお立ち上がり続ける姿は、彼のこれまでの無様さとは裏腹に、多くの観衆の心を魅了し、その中で自分も物凄く心打たれて思わず涙が出た。

そして、冨手麻妙さん演じる愛がいて彼女だけはずっと彼を見捨てなかったからこそ、あそこまで輝けたという点にもちゃんと触れていくのが、より感動を助長させた。

後編では芸人ボクサーである宮木を倒し切れなかったことで、晃はさらに堕ちていき崖っぷちの中の崖っぷちからのスタート。
大切にすべき周りの人たちにも次々に災難が降りかかり、なかなかにきつい展開が続く。

それでも決められるところで引退を決められず、取捨選択の決断を先延ばしにしてしまう晃。
中途半端に夢を諦めきれないけど、欲しいものは欲しいというスタンスが、なかなか両立させることができずに、どちらもを失っていく様はとてもリアルな感じがした。

世界チャンピオンを目指すことは正直もう厳しいだろうと頭ではわかってるように見えるが、感情的な問題としてそれを簡単に捨てることはできない。

かたやでやってきた過去が明らかになり、それによってボクサーとして致命的な負傷を負った龍太。
生活の糧としていたその道がなくなることで、自暴自棄になってしまいそうになる。

そんな絶望の中にいる晃と龍太の過去が映し出せながら、明らかになっていくまさかのエモーショナルな関係性から、徐々に戦友として呼応していく2人。

そこからの展開は本当に圧巻だった。
一度堕ちてしまった状態から、また頂上を、大きな夢を目指せるわけではない。
それでも、どれだけ無様だと思われても、その先に何が見つかるかはわからなくても、本気になり切るという覚悟。

それは今まで見ていた晃の姿とは全然違っていて、彼なりに背負ってるものの重みの感じ方や覚悟を決めるその温度感に明確な変化が見えていった。

そういう過程の部分や変化に関しても、物凄く生々しく感じられるほどに、それぞれの役になり切っているキャストの再現性が本当に凄かった。
実際にそこに本当に生きている人たちを見ている感じがして、演じる側にもよっぽどの覚悟や努力がないとここまでは絶対に入り込めなかったと思う。

それらが相まっていくからこそ、あのラストファイトは本当に集大成として感極まって、涙が止まらない感動に繋がった。

無様な生き方ではあっても、そこにはそれぞれの本気の生き様があって、あらゆる関係が生まれることで、だんだんとその人たちにしか出せない輝きを放っていく。

前後編入れると4時間半と長丁場ですが、本当におすすめしたい作品です。

映画『ばるぼら』感想:狂気を破滅的に美しく魅せる怪作

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狂気の果て。
あれは、幻だったのだろうか。

荒廃した都会の街、和ホラー的なオカルトテイスト、ミステリー要素、文学的描写、蔓延していく狂気からの人間の闇堕ちに加えて、いかにも往年の小説家っぽい雰囲気を纏う稲垣吾郎さんと


まさに文学に出てくるミューズを絵にしたようなミステリアスで魅力的なばるぼらを演じる二階堂ふみさん。


あらゆる要素が入り乱れながら作品としては崩れずに美しさを一点に保ち続ける、なかなか今までに見たことがない映画の世界を魅せてもらいました。
文学小説を書いている人の頭の中にはこんな世界が広がりながら書いていると思うと改めて凄いと思うし、やはり常人からは逸してるなとも思う。

堕ちていく人間の姿がここまで美しいと感じたことはそんなになくて、これこそがまた芸術の一つの形なのかなと感じた。

その人が破滅させるほどの魅力を纏うばるぼらは、美倉にとっての「ファムファタール=芸術」であり、幻想の世界に連れて行かれるように、ばるぼらの世界に誘(いざな)われていく。

現実になくとも心に内包されているスイッチみたいなものが、ばるぼらと介する中で開かれて押されていくような感じ。
そうなるともう引き返すことができない。

何もかもがなくなってもその人と一緒にいることを決めて、それゆえに周りから人がいなくなり、どんどん堕ちていく様はまるで『本気のしるし』を見ているようだ。

『本気のしるし』では、それが現実における人との関係の作られ方によって現実的に同等な関係の中で描かれていた感じがしたが、『ばるぼら』は運命論的というか、あくまで現実とは一線を画す文学的な幻想の中にある芸術として描かれていると感じたのが印象的。

共感できたり寄り添ったりして入り込んでいくのではなく、美しさに魅せられて気づいたら堕とされていっていたという感覚に近い。

まさに狂気の果て、終わりのない悪夢を見ているような映画だった。
この世界観を映像にできるとは!

P.S.
『凪待ち』の香取慎吾さん、『ミッドナイトスワン』の草彅剛さん、そして今回の『ばるぼら』の稲垣吾郎さん。
新しい地図として独立したお三方が次々にジャニーズ事務所にいたら難しいであろう役に挑戦していて、いずれも見入るほどの演技力を見せているのが凄い!
役に向き合ってる感をとても強く感じられる。
そして文学の中に出てくるミューズを演じると右に出る者がいないくらいの魅力を放つ二階堂ふみさん。
以前は『蜜のあわれ』でも遺憾なく成り切ってたけど、本作もとてもよかった。
今観てる『エール』とのギャップが凄い!
脇を固める渋川清彦さんや石橋静河さんも、やっぱりこういう世界観にちゃんと馴染んでいて、存在感もあってよかったです。

映画『朝が来る』感想:「なかったことにしないで」の切実さ

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第73回カンヌ国際映画祭Official Selection 2020」選出作品。
河瀨直美監督の作風、綺麗な情景と自然に包み込まれるような演出が好きなので、新作をとても心待ちにしていた。

作風や演出は、今までの自分の好みな自然や光が印象的に盛り込まれていて、『朝が来る』を夜から朝へ繋いでいく情景で見せてくる感じも、程よく余韻に浸れてよかった。

それに加えて物語とそこから示唆されるメッセージ性に、役者の演技(特に蒔田彩珠さん)もよくて、作品を観て今後の生き方が変わるほどの強度を感じる作品でもあった。

この世では何か大切なものが置き去りにされている気がする。それが詰まっていた。

人と人とが関わり合いながら生きる上での大切な何かと少しの希望を見出していく物語。
その過程に確かにどこかで生きてきて、今そこで生きている様々な境遇の人たちが、ドキュメンタリーのように映し出されていく。

その人を見ようとすること、その人の話を聴こうとすること、そしてその人のことを知ろうとすること。
その前にそれ以外の声が入ってくることは、本当はあるべきではないのかもしれない。

その人にとって大切ならば大切で、なくしたくなかったらなくしたくなくて、好きだったら好きなのだ。
この真実なくして、世間や現実が語られることは本当にその人のためと言えるのだろうか。

切り取られた言葉や起こった事実だけでは、その人のことなんてわかるわけがない。
そこにどんな思いがあるのか。
それを野放しにするコミュニケーションに、愛は本当に存在しているのか。

コミュニケーションにおいて無意識に内在している、自己基準の価値判断から相手を傷つけ、遠ざけてしまっている可能性について、物凄く考えさせられた。

ポスターに書かれている「あなたは、誰ですか。」という言葉は、ミステリー性を思い起こすだけの意味として受け取るとまた浅はかなとなるが、「あなたは、誰ですか。」と問い続けることの大切さが示唆されてるとしたらなかなか秀逸。

ひかりはひかりではあるが、名前としてのひかりというだけでなく、ひかりという人間はどんな人なのかを問い続ける。
誰なのかということを隅々まで知ろうとする。
ありのままを受け入れられるように、その人がありのままそこにいてよいという安心感を持っていられるように。

「親のための子ではなく、子のための親」
「親が子を探すのでなく、子が親を探す」
この真意がとても深く、『万引き家族』で感じたものに近しい。

愛するということは、(自分本位の価値観で)教えることでも諭すことでもない。
愛するということは、ありのままのその人を理解した上で、そのままを受け入れること。それが信じることでもある。
だからこそとてつもなく難しくて、覚悟がいることなんだと思う。

本作の大きなテーマとして描かれた養子縁組に関しても、親から一方的に決められるのと、理解しようとしてくれた上で話し合って決められるのとでは全然違う。

その人の思いが大前提にあって、その上でどうするかということをお互いに語り合えて、初めてその人のためだと思えるのではないだろうか。

そして誰もにとって、そういう存在がいるだけで生きたいと思える尊さも説かれていく。
そんな存在は、必ずしも(血縁関係のある)親であるわけではない。
あらゆる出会いの中で、ありのままで会話ができる相手は人によって異なってかるから。

自分のことを理解してくれるという感覚、同じ目線で会話ができているという感覚。
それらが大切だと、主にひかりの目線から、浅見と外に出たひかりが出会った2人の年齢の近い女性たち(山下リオ、森田想が演じていた女性)との関わりによって示唆されていく。

まずは生きなければならない辛辣な現実も色んな観点から描かれるが、一人ではしんどくてもわかり合える誰かとなら、「生きなければならない」現実が「生きたい」現実に変わり得る。

「なかったことにしないで」
自分にとってかけがえのないことを(世間体などを気にして)なかったことにされるのは、本当にその人にとって正しいことなのか。

気付いてもらえたラストのシークエンスは、本当に救いでも希望でもあって、じんわりと余韻が残った。
本当に素晴らしくて、心が揺さぶられる大傑作でした。

P.S.
キャストは脇を固める俳優含めてとてもよかった。
その中でもやはり本作では、蒔田彩珠さんを特筆したい。
輝きを放つ青春の日常から、10代で妊娠することになり、様々な葛藤や感情、そして思いを抱えながら、それをなかなかわかってもらえずに、思い悩んでいく姿から打ち明けられる人に出会ったときに見せる表情の演じ分け。そして動きや仕草。
どれを取っても素晴らしすぎた。
間違いなく彼女のターニングポイントになる作品になったのでは!
永作博美さんと井浦新さんは言うまでもなく安定感があり、安心して作品に没入することができた。